🎤2020年5月17日礼拝説教『恐れることはない』(音声27分+説教要旨)

講解説教 ヨハネによる福音書6章 第2回
説教者: 白鳥 彰 牧師
聖 書: ヨハネによる福音書 6章16~21節

音声を聞く場合は、下記左側の▶印をクリック願います。音量調整は各機器の調整機能をご利用願います。

20200517礼拝案内

《5月17日説教》 「恐れることはない」  ヨハネによる福音書6:16~21

5千人の供食の奇跡は唯一4福音書全てに表され、マタイとマルコでは4千人の供食としても描かれる。ガリラヤ湖(時代によりテベリヤ湖やキンネレテ湖と呼ばれた)において、陸路で大勢の群集がイエスのところに押し寄せてきた。それはまるで“羊の群れのように”。イエスはそれを見て非常に感動され憐れまれた。先週も述べたように、5節の“どこで?”は「イエスはどこからきて何処へ=神からきて神のところへ」という空間的とらえ方によってフィリポに問うている。200デナリオンは200日分の給料。11節「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。」→ここで我々の信仰が与えられている、成立していることになる(=過越し祭の時期に)。

 ここより1200年前、イスラエル人がエジプトで奴隷の民とされ、モーセに率いられて40年間荒野でさまよった後、約束の地に行く。エジプト脱出し3か月後、モーセはシナイ山に登り神から十戒が与えられる。そして長老たちに伝えられ、長老たちから60万人の民に伝えられて律法が与えられた。律法によって与えられた神様の恵み、これにより60万人がひとつになってエジプトを脱出できた(救われた)。まさにこの事柄を凌駕しているのが5千人の供食であった。

 人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ世に来られる預言者である」と、イエスはモーセにまさる預言者と告白。

ヨハネ教会ではユダヤ教とキリスト教とは異なる、つまりキリスト教は異端であると宣言されユダヤ人の会堂からの追放があり、ローマからは迫害されていた際にこの福音書は書かれている。70年神殿崩壊、85年ヤムニヤ会議、そしてユダヤ人キリスト者から脱落者が出ていた状況=戦々恐々の中、特にカトリックでは“ここに全てがある”とされた。それ故にイエスの5千人の供食の出来事は、モーセの十戒の授与にまさるという意味が込められている。 「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから・・・」これは教会における聖餐式のパンであり神の恵みそのもの。

 本日のイエスが湖の上を歩く記事は“2つの奇跡で1つのしるし”を表す(マタイ・マルコ福音書も参照)。19節:1スタディオン=185m→25~30スタディオン=約5㎞地点。

“板子一枚下は地獄”とは船乗りは常に危険と隣り合わせであることの諺であるが、「夕方になり強風が吹いて湖は荒れ始めた6:18」はそのまま弟子たちの心境を表現している。舟はまさにヨハネの教会、弟子たちはあなた方と私たち信徒。そこで神は「わたしはイスラエルの民が苦しむのを聞いた(出エジプト3:7)。私は必ずあなたと共にいる。それがあなたを遣わすしるしだ。」と言われた。ユダヤ人は「私は神に遣わされた者です。」と問うと「その神は何という名前か?」と再度神は聞かれた。「・・・」→「私はある、私はあるという者だ(出エジプト3:14)」と言って神はご自分を現わされた。これは1月6日公現日(顕現祭or栄光祭orエピファニー)の由来。

20節:「わたしだ」は“私はキリストである”。その私が「恐れることはない」と言う。教会はその方を迎え入れた。イエスを迎え入れたことにより間もなく目的地に着いた。教会に対しキリストが「恐れることがない」と仰って下さるのである。それを信じて進むのが教会の在り方である。

 Ⅴ・フランクルのことば「この肉体に包まれた自我としての私は死んでも私が生き抜いた時間は永遠に残り続ける。過去は永遠の記録として残る。そしてこの永遠の記録は決して失われることはなく永久に保存される。・・・過去ほど安全かつ確実な存在はない。未来の可能性は誰かの手によって妨げられうるが過去の現実は誰によって奪われることがないから…その人生を意味ある仕方で生き抜いたとしたら、たとえ死んでもその人生の意味は決して無くなることはない。むしろ死によって全てが過去になることで人生は永遠に意味あるものであり続けることができる」。人生を意味ある人生として生き続けることができたら幸い。

がん研・有明病院腫瘍精神科部長 清水医師の話~患者のOさん(27歳・弁護士を目指して勉強中)は進行性胃がんで余命を告知され絶望して自殺を試みた直後清水医師と出会う。0さんは人生を大好きな将棋にたとえ「自分は、どうしても詰みから逃れられない将棋と同じだ」「(中略)最悪のくじを引いてしまった」と話す。だが清水医師にくじを引かなかった方が良かったか?と尋ねられると「最悪のくじでも引いて良かった」と吐露する。限られた時間をどう生きたら、有意義だったと思えるようになるかという課題に取り組み、0さんは子供のころからのアルバムを見返し、両親の紛れもない愛情を感じ、両親に「若くして死ななければならないのは残念だけど僕は幸せだった。本当にありがとう」と感謝の言葉を直接伝えて逝った。聖書の言う愛が全てであると言える。               栄光在主