🎤2020年6月14日礼拝説『その人の内に』(音声30分+説教要旨)

講解説教 ヨハネによる福音書6章 第6回
説教者: 白鳥 彰 牧師
聖 書: ヨハネによる福音書 6章52~59節

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《6月14日の説教要旨》 聖書:ヨハネ6:52~59 「その人の内に」

今日の箇所は、イエスに敵対的なユダヤ人たち、ユダヤの当局者とイエスの対話を通してイエスの真相が明らかにされていく箇所です。

 既に読み進みましたベトザタの池の話(5:1~18)があります。38年間も病気で苦しんでいる人の、本当の苦悩を知って「良くなりたいか?」とイエスが問うと、彼は「主よ、水が動くときにわたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。私が行く前に他の人が先に降りていくのです。」と告白。それに対しイエスはさらに「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると彼はすぐに良くなって床を担いで歩きだしたのです。けれどもこのしるしは安息日論争へと発展していきます。

 何故ならそれはモーセの十戒の4番目の戒めに触れるものだと考えられたからです。その十戒はこう記しています。「安息日を心に留めこれを聖別せよ。6日の間に働いて何であれあなたの仕事をし、7日目にはあなたの神 主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはいけない。あなたも息子も娘も男女の奴隷も家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。」と。

 ここで重要なのは、安息つまり休息が与えられるのは“いかなる仕事もしてはならない”ということが強調されるのではなく“いかなる人々にも安息が与えられている”ということにあります。男女の奴隷も家畜も寄留の人々も、休息し体も心も休むことが出来るようにいわゆる弱者への配慮がされているのです。さらに最も重要なことは6日の間主は「天地を創造された。地は混沌(カオス)であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。」(創1:1)のです。ヨハネ福音書1章1~4節引用。6日の間、主は天と地と海の底のものを全てお造りになって、それをご覧になり「それは極めて良かった」と被造物への絶対肯定をされています。従って天地創造のできごとは神の絶対肯定の中にあるのです。

 私たちは、両親や兄弟姉妹、配偶者、恋人や友人たちの愛の中で生きることが出来る、それがなければ生きることができません。愛がなければ私たちは死んでしまいます。しかし多くの場合、この愛はひどく哀れなもの、すなわち限りのあるものとして体験されています。不完全な人間の愛がもたらす傷によって打ちのめされないためには、次のことを信じなければなりません。“全ての愛の源は神の無制限で無条件の完全な愛であるということ。そして神のこの愛は私たちから遠く離れたところにあるのではなく、私たちの内に居られる神の霊の賜物であるということです。

 Ⅴフランクルは「世界の主軸は神の愛によって回っている」と言ったが、この癒された男について、イエスは安息日にしてはならないことをしたということで訴えられる。そればかりでなく、イエスは自分を神と等しい者としたことからキリスト論争へと移っていきます。

 51節:「・・・私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のこと・・・」これは聖餐式(カトリックのミサの定義)の言葉です。これに関連しⅠコリント11:23~24「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれ裂き、『これはあなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。」とある。“感謝の祈りをささげ”はユーカリストと言って、共観福音書にも5千人の供食の中で記されています。13章でイエスはいよいよ」最期の晩餐を迎える前、弟子たちを愛し抜かれて、弟子たちの足を洗います。神が僕の形をとり足を洗い、それ程までに仕えていて下さるのです。それは“わたしの愛に留まりなさい。互いに仕え合いなさい”というメッセージの表れと言えます。

 聖餐にあずかることによっていつもイエスの内にあり、イエスも私の内にある。イエスはいつも私とあり私はいつもイエスと共にある。ヨハネ15:9~12「父が私を愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。(中略)これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」と聖書は教えています。

 横須賀学院で学報が送られてきました。塩谷直也(神学者・青山学院大学教授)氏の講演の中から、「生きがい」それは必要ですか?ただ生きるではだめなのでしょうか?この生きがいという言葉は、英語でピッタリくる言葉がないらしいのです。それで、ある人が生きがいを次のように翻訳していました。「The reason you wake up in the morning.(朝起きるその理由)」これが生きがいだそうです。生きがいがありますか?と聞くのは(あなたは朝起きる理由がありますか?根拠がありますか?ということです。

 はたしてそうなのだろうか、と塩谷氏は1つの話を投げかけます。ここではかいつまんで記します。「ちょっと想像していただけますか。健康診断で余命2か月いっぱい、と宣言されたらどうされますか。何をして過ごされますか。治療法を探したり助けを求めますか。世話になった方にご挨拶されますか。生徒たちに最後の言葉をどう語りますか。色々やることがあると思います。もうあと、1か月半くらいだったら・・・いずれにしろ夢だの生きがいだの、朝起きる理由だのというのは全部吹っ飛んで、ただひたすら“生きる”ことに集中する。どう頑張っても治りそうにない、そしてとうとうその日を迎えるとします。その前日の夜、医者からこんな電話があったとします。『(あなたの病気は)誤診でした、あなたは至って健康です。』と告げられたとします。さて、どんなその日を迎えるでしょう。“生きがい“はいりますか。“夢”が必要でしょうか。今日生きていること。命があること。そのこと自体が喜びであり、わたしの存在の重み自体が恵みであり、心も体も満たされるのではないでしょうか。(以下略)。」

私は、今生きていること命があること、それで十分、それだけで喜びではないかと思います。神の喜びが溢れる、イエスの喜びが私たちの内に満ち溢れるためにと書いてあるのです。私たちの存在自体を絶対肯定される主がおられるのです。

 共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)では終末論を時間的にとらえています。すなわち「キリストは既に来られた。そして未だ再臨のキリストは来ていない。」というとらえ方です。しかしヨハネ福音書では終末論を空間的に指し示しています。それは「キリストは神の元から来て神に帰る」という“神の場所”“神の国”としてのとらえ方です。

人生に大事なのは既にと未だの間、それを支えているのは何処からきて何処へ行くのか?という空間的終末論。イエスは神の元から来て神の元へ向かう方であり、その方の内に私たちは入れられているのです。祈ります。
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≪本日の説教に関連する記事、「既に」と「未だ」ついて≫
生は言わば、起源も終末も解き明かすことのできないまま、この「まだ」と「もう」の間に・・・漂い続ける運命なのかも知れません。 沼野充義
「まるで亡命者のように」とロシア文学者は続ける。人生で大事なのは、何処から来たかでもなく、どこへ向かうかでもなく、「どことどこの間にいるか」だと。私たち「日本人」も偶々ここに生まれ落ちた、あるいはやってきた過客だと考えれば、その自己像も随分違ってくるだろう。 沼野編『芸術は何を超えていいくのか?』の序文から。