🎤2020年6月28日礼拝説教『私の時はまだ』(音声34分+説教要旨)

講解説教 ヨハネによる福音書7章 第1回
説教者: 白鳥 彰 牧師
聖 書: ヨハネによる福音書 7章 1~9節

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以下は説教の要旨です。

≪6月28日の説教要旨≫ 聖書ヨハネ7:1~9 「私の時はまだ」

 本書の目的20:31「・・・あなたがたがイエスは神の子メシアであると信じるためであり、信じてイエスの名により命を受けるためである。」→本来「イエスは神の子キリスト」と訳すのが正しいのですが。

 なぜギリシア語でキリストとなっているのに日本語訳ではメシアとするのか?これには以下のような理由があります。新約聖書ではコイネーという当時の一般的なギリシア語で語られています。原本がなくて有力な写本から推測して原典は20~30年ごとに改訂されました。私が神学校時代に購入したのがネストレアーラント26版だったのですが、最近購入のものは28版になっていました。この間40年経ち、28版には「イエスは神の子キリストである」と記されていました。玉川直重編『新約聖書ギリシア語辞典』は40年前の当時大変高価なものでした。最近その改訂版ができました。その前書きの中に「ギリシア語はギリシアの黄金時代にアテネで用いられていた古典ギリシア語を意味し、BC2~3世紀アレクサンドリアを中心に地中海周辺で用いられたコイネー(庶民語)と呼ばれた通俗語であった。しかし玉川直重はコイネーで書かれたと言ってよいのかというと、どの学者も敬虔なヘブル人であって、ある者はヘブル原典に、ある者は77人訳(旧約聖書ギリシア語訳)に見方・考え方がユダヤ教的であり、ユダヤ要素を含み一種荘重な語調を持っている。」とあります。

 いわばユダヤ教とヘブル語に精通していたのです。それ故に“イエスは神の子キリスト”とあるのを、“イエスは神の子メシア”と意訳し意味を込めたのでしょう。しかし私は日本人には直訳で良いと思います。イエスは神の子キリストである。イエスの名によって命を得る。そのことを信じられるか?が重要であると考えます。

 さて6章までに4つのしるしが描かれました。①最初のしるしは「ガリラヤのカナの婚礼」において6つの水瓶の水を葡萄酒に変えた奇跡。②ガリラヤのカファルナウムで役人の息子が癒される話。③ユダヤ:エルサレム神殿でベトザタの池で38年間、病気だった人を癒す話。ベトザタは“双子の”という意味。④そして再びガリラヤで5千人の供食の話。

 これらを振り返ってみると①ではご自分の母マリアの訴えに対し「婦人よ、私と何の関りがあるのですか?私の時はまだ来ていません」と突き放しているように思えます。がしかし、世話役がイエスに「この婦人の言った通りにしてあげるように」と促され、6つの水瓶に水を満たしたところ、それは最上級の葡萄酒へと変化し、それを見た弟子たちはイエスを神の子であると信じたのです。

 ここでイエスとニコデモの話を引用。イエスは「誰でも新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」と伝え「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(3章16節)」と言われました。これは“福音の中の福音”であり、御子を賜うほどにこの世を愛された神の真実であるのです。聖書の大前提ともいうべき言葉でしょう。

 ②では役人の息子が病気の際「あなたの息子は生きる。帰りなさい」とイエスに告げられ、それを信じて帰っていった。息子が生き返った時刻を家人に尋ねると、それはイエスが前述した、その時刻と同じであった。

 ③では長い闘病生活をおくり友もいない。病気だけでなく、その辛さを一緒に担う相手のいない寂しさを、何が最も苦しいのかをイエスが見て知っておられたことです。彼は「主よ、真っ先に私を連れて行ってくれる人がいないのです」と告白します。私たちは神に見られ知られています。私たちの苦しみを主が知っておられるのです。アンネの日記の冒頭にはこう記されています。「あなたになら私の心の奥底を打ち明けられそうです。どうか大きな心の支えと慰めになってくださいね」と。アンネはなくなる前の2年半をこの日記に託したのです。このように神に愛された人がいたのです。しかしベトザタの池で癒された人は回心せずにイエスの為したことをユダヤ人に密告し、そのためイエスは命を狙われることになります。イエスの癒しの業が安息日に行われたことにより、またご自分を神と等しいとし神を父と呼んで・・・その後、安息日論争へと発展します。

 ④では2匹の魚と5つのパンで5千人を養う奇跡。ここで大事なのはイエスが感謝の言葉を捧げて(ユーカリスト)皆に分け与えることによって皆が満腹し、なお余りある恵みとなったということです。人々はイエスのなさったしるしを見て、イエスはキリストであると信じたのです。

  • ~④の舞台はガリラヤ(イエスに好意的な地)→ガリラヤ→ユダヤ(イエスに批判的な地)→ガリラヤと移り、再びガリラヤに居ながらユダヤ人が、ユダヤ当局が入ってきます。そこで「真にイエスこそ地上に来られるパンである」という主張に対しユダヤ人からの迫害が強くなり、ユダヤの会堂から、ユダヤ人キリスト者たちは追放され、」弟子たちから多くの脱落者が出てくる状況に追い込まれました。ユダヤ人たちの攻撃だけでなく、弟子たちさえも同じように攻撃に迎合していく有様に・・・イエスはペトロに「あなたも離れていきたいのか」と問われ「主よ、私たちは誰の所へ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。6:68~69」と告白するのです。

 ルカ9章ではその後、ペトロがイエスに「あなた方は私を誰だと思うか」と問われ、「あなたこそ神からのキリストです」と答えます。キリストは必ず多くの苦しみを受け、長老・祭司長・律法学者たちから排斥され、殺され、三日目に復活することになっている。イエスはそれを享受していました。

 2~6章までに4つのしるしがあり、ペトロの告白があり、いよいよ7~12章で2つのしるし(目の不自由な人を癒す話。ラザロの復活。)があります。そして18章からイエスの受難と復活に入ります。

 この受難と復活を7つ目のしるしとしているのです。7章6節「私の時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。」は実に不思議な場面です。イエスが行かないと告げながらこの後出かけていくのですから・・・

 イエスは十字架刑を目前に、できる限りの弟子たちへの愛を示したかったのかもしれません。“あなたがたの時はいつも備えられている”とは何か?何を意味するのか?考えますと、イエスの地上での生活も有限であるということを表しているのでしょう。

 以前にもご紹介した清水研医師の記事には「がんの告知をきっかけに、人生が有限だと実感すると、どのように過ごしたらよいか誰しも真剣に考えます。そして、人生を振り返り『本当に大切なことはこれだ』という自分なりの答えを見つけてきます。(中略)来し方を思いじっくりと自らの生を確かめると、ほぼ例外なく最期には自分の人生を肯定します。アイデンティティーという概念を提唱した米国の発達心理学者エリクソンは、老年期に向き合う最後の課題として『人生の統合』を挙げました。統合とは、自分の人生が有意義なものであったと実感し、人生を肯定すること。がんは年齢に関係なく、人生を統合する貴重な時間を十分に与えてくれます。」とありました。

 人には、自分の人生が有限と気が付いたとき、最期にはその人生を肯定する機会が与えられているというのです。しかも自分の人生が有意義であることに気づかされる機会がどんな時も備えられている。

 教会に集っておられる方々には、誰にでも「人生はこれで良かった」という瞬間が備えられていると確かに思います。私たちにはどんな時にも、主の道に行くべき時が備えられているのだと、それも神様によって準備されていることを確信します。祈ります。