🎤2020年5月24日礼拝説教『命のパン』(音声28分+文章)

講解説教 ヨハネによる福音書6章 第3回
説教者: 白鳥 彰 牧師
聖 書: ヨハネによる福音書 6章22~33節

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《2020年5月24日の説教》 聖書 ヨハネによる福音書6章22~33節 「命のパン」

イエスの伝道拠点カファルナウムはガリラヤ湖北西に位置していた。カファルナウムの「向こう岸6:25」とはベトサイダ(「漁師の家」という意味)そこにイエスと弟子たちは小舟で渡ったのである。ベトサイダはガリラヤ湖北東にあったので大勢の群衆が陸路でイエスの後を追ってやってくることができた。6:26「しるしを見た」とは、多くの病人を癒すのを見たこと。ここで本書の目的を振り返る20:30~31。本書(しるし)が書かれたのは、“イエスは神の子キリストであると信じるためであり、信じてイエスの名によって命を受けるためである”。そして大勢の群衆が後を追ったのは、彼がイエスは神の子キリストであると信じたからでありイエスの名によって新たな命が与えられるためである。

5千人の供食においてフィリポは、神の子キリストはどこから来てどこへ行くのか?とイエスに問われている。答えは“キリストは神から来て神の元へ行く“のである。がしかし、ヨハネ福音書は14・15・16章(別れの説教)において、イエスはご自分の死期が近いことを悟り、弟子たちを心から愛し抜かれたと語る。14:1~6であなた方は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい。(中略)わたしは道であり、真理であり、命である。」と説く。

ヨハネ6:11(ルカ22:19~20も参照)「・・イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、・・・」の感謝(ユーカリスト)は聖餐式の言葉。イエスの新しい戒めであり私があなた方を愛したように互いに愛し合いなさい。神が御子の体を与えて、その血潮によって赦された者として生かされている事を信じるように勧める。イエスご自身の体を与え、それぞれを贖われて「生きていてよい。しっかり生きなさい。私が支える」とおっしゃる主が居てくださる。

 さて、辺りは暗くなり荒波になり小舟は揺れ始め、行くことも戻ることもできない状況下、弟子たちの動揺は明るみになる。その状況は真にヨハネ教団の教会の状況であり荒波に揺られる小舟がそれを表す。その時「わたしだ、恐れることはない(エーゴ・エーミン」と主は呼掛ける。

 ヤムニヤ会議で律法による再建を図っていた際、キリスト教とユダヤ教とは異なるという主張をしなければならなかった。また会堂に集まったユダヤ人キリスト者が追放される。社会的排除があり命の危機もあり、現にパウロは外国に逃げたキリスト者を捉えるため、主の弟子たちを脅迫し殺そうと意気込んで大祭司のところへ行きダマスコの諸会堂あての手紙:許可書を求めた。それはユダヤ人キリスト者を見つけ出し男女を問わず捉えてエルサレムに連行するためであった。25節「ラビいつここにおいでになったのですか?」の問いにイエスは答えずイエスの真相が明らかになっていく。イエスは神の子キリストである。“あってある者”であると。27節でご自身を表し「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」33節で「神のパンは天から降ってきて世に命を与えるものである」と。

本当に人を生かす為の命は何か?井上洋治著「日本人とイエスの顔」より引用

「私には忘れられない一つの思い出があります。私がまだキリスト教にも入信していない学生の頃です。秋のある晴れた日、数人のカトリック信者の友人に誘われてあるハンセン病病院を訪れた時のことです。

 それは講堂で私たちのあるつまらない劇の終わった後、歩くとミシミシとなるクレゾールの匂いのしみ込んだ西日の当たる廊下を通って木造の病室を訪れた時のことでした。生まれて初めてハンセン病の患者の方々と接した私には短く刈り込んだ髪の毛に植えマツ毛のために男女の区別もよくつかず皆が同じようなお年寄りの顔に見えてしまうのでした。20才くらいのお嬢さんを60才くらいのお爺さんと見間違えてしまったから益々どうしてよいか分からない状態になっていました。

 そのような私の気持ちを察してくれたのでしょう。反対に訪問者の私を慰めて下さるかのように一人の患者さんが私に向かって語りかけて下さったのでした。中学校を卒業後、努力してある商売を身につけ奥さんも迎えることができ、二人の子どもに恵まれました。その方の幸福な日々をある日、暗闇のどん底に突き落としたものは、その方に対する全く思いもよらぬハンセン病の宣告だったのです。

 内心ビクビクしながらも表面上は何でもなさそうに振る舞い、たった一日だけの友人のように強いて行動しながら翌日はホッとしたような思いで世間に帰っていく。そのような言わば偽善的な私を分かりながら、しかもそれでいいのだよとでも言ってくださるような、年老いた病人のかたの姿でした。そしてそれとの関連で、ふと私の頭をかすめたものは、がらんとした病室のベッドの置かれた、膿でページも所々くっついてしまっている聖書でした。(ハンセン病の後遺症で失明した方は、点字用の聖書を用いる際、手足の末梢神経は利かないので舌で点字を読みます。舌読するため聖書が唾で濡れページどうしが付着したりします。膿ではなく唾。)

聖書とはいったい何が書いてある本なのだろうか?翌日の木漏れ日の美しい雑木林の中をそんなことを考えながら歩いたのをはっきり覚えています。それが私の人生における聖書との言わば初めての真の出会いであり、また同時に私の人生を捉え、私の人生を完全に変えてしまったイエス・キリストとの出会いなのです。」そこまでしてそこまで支えられている聖書とは何だ?そこに真の命がある。その命をどうしても彼は知りたかったのだ。

 自らハンセン病患者であることを詠った玉木愛子さんの俳句紹介。

「毛虫はえり 蝶になる日を夢見つつ」 「目を捧げ手足をささげクリスマス」

(補足:玉木さんは5歳で発病し熊本の回春病院と瀬戸内市の長島愛生園で長く療養される。34歳で受洗。42歳の時病状が進み足を切断。ご自身の信仰と病気を通して“生きる力を与え、命を与えるのが聖書である”ことを証しした。聖書により、まるきり違う命が与えられている訳である。毛虫はえり・・・そのような想いになれる、生かされている、生きる力・生きる喜びが与えられている。それが聖書である。そのためにあなた方は働きなさいと言われている。神は命を与えている。

 「神のパンは天から降ってきて世に命を与える」・・・神はその独り子を賜うほどにこの世を愛された。・・・神はこの世を愛されたのだ。神はこの世に命を与える。聖書はイエスを愛してこの世を憎めとは言っていない。神は愛を与え命を与える方である。

 先週もお話しましたが、がん研有明病院腫瘍精神科部長の清水医師の話の冒頭に「がんを告知され悲しみと怒りに沈んでも、患者さんの多くは時を経て風にたわんだ柳のように立ち上がり以前と異なる世界観を身につけていきます。心理学で『心的外傷後成長』と呼び①人生への感謝②新たな視点(可能性)③他者との関係の変化④人間としての強さ⑤精神的変容の五つの変化が生じる」とある。生きているのは当たり前ではないと気付く、時間が有限と知ると感謝がわく。人生の本当に大切なものは何か?と考える。それは「大切な人との時間」であり多くの人に支えられていることを知ると「人間って温かいんだ」と思うようになる。また自分は意外と強いと感じる。人間の力をはるかに超える力に気付く。へこたれずに頑張った自分を褒めてあげたいと思う。そこに自分の精神的変容がある。私の母がそうでした。自分ががんであると知った時「自然が輝いて見える。私はこんな素晴らしい世界に存在しているんだ。」と言っていました。

神を感じ永遠の生命に至る命を生きていると感じる。そのような生き方をしていきたいと願います。主によって祈ります。