🎤2020年5月31日礼拝説教『私のもとにくる者』(音声28分+文章)
講解説教 ヨハネによる福音書6章 第4回
説教者: 白鳥 彰 牧師
聖 書: ヨハネによる福音書 6章34~40節
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《5月31日説教》 聖書ヨハネ6:34~40 「私のもとにくる者」
本書の主題は20章31節にある。「イエスは神の子キリストであると信じるため、また信じてイエスの名により命を受けるため」とある。このようにヨハネ福音書を読んだ者が“イエスは神と等しいものである”“イエスは神である”と信じられるようになるため書かれた(ここは6:22~59までの主題となる)。
20章24~29イエスとトマスの中で、ディディモ(「二つの心」とか「疑い深い」意を表す):トマス は、ほかの弟子たちが「私たちは主を見た」といったがトマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、この手をそのわき腹に入れてみなければ、決して信じない。」といった。次の週、鍵の掛かった部屋にイエスが現れる。そして「シャローム:あなたがたに平安があるように」と言われた。そして「私の手の釘跡を見なさい。私の懐に手を入れてみよ。信じないものではなく、信じる者になりなさい」と言われた。するとトマスが「わたしの主、私の神よ」と告白。イエスの招きに応えてトマスが「我が主よ、わが神よ」と信仰の告白をしたのである。
この箇所を読み私たちも「我が主よ、わが神よ」と告白できるようになっているだろうか? “イエスが主だ”という時、イエスはどのような方か?本日の箇所でイエスの真相が記されている。
イエスはどのような方か、どのように信じていって良いか・・・イエスは私が命のパンで、本日の対話は33節の「神のパンは天から降ってきて世に命を与えるものである」をきっかけに展開される。
34節「主よ、そのパンをいつも私たちにください」と・・・私たちにとって、いつも食事を与えられること、35節「私が命のパン」と言われる主がおられる。この言葉で私たちには思い出されることが有るのではないだろうか?
イエスが公生涯に出る前に40日間荒野でさまよい試みに遭われた際、サタンによって「この石ころをパンに変えたらどうだ!?」と問われた。そしてイエスは「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きる」と弁明した(申命記8:3)。この話はユダヤ人が40日間荒野をさまよったことを想起させる。ユダヤ人を率いていたモーセは民衆に責め立てられるが“マナ”(what:これは何?の意)が与えられた。
「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしない。(中略)主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この40年の間、あなたのまとう着物は古びず、足が腫れることもなかった。」申命記8:2~4
横坂剛比古は「『人はパンのみにて生きるにあらず』を世間では、人は物質的な満足だけでなく、精神的・文化的な満足もなければ生きていけないと解釈されているが多くの人は誤解している。簡単に言えば『パンばかりに固執してはいけない。神様の言いつけに従っていれば、自ずとパンも与えてもらえるから』というメッセージ。つまり神様を信頼することの大切さを説いている。」と話す。
神様を信頼するとは、病気が治るということではなく、むしろ反対の意味である。どこの宗教でもそれを信じれば苦しみが無くなるとは言えないし、苦しみは変わらないけれども、むこうに出口が見えているかどうか。人間が生きていくということは、やはり様々な業、宿命のようなものを背負っているわけで、それだけでも大変なことである。宗教を持つ意義はその大変さを底で支えてくれるかどうかである。
五木寛之著「他力」から引用
「他力本願などと容易に使われますが、もはやこの他力は出口なき闇の時代にギラリと光る日本史上最も深い思想であり、凄まじいパワーを秘めた生きる力です。もはや現在は個人の自力で脱出できる時ではありません。他力こそこれまでの宗教の常識を超え、私たちの渇いた心を劇的に活性化する魂のエネルギーです。この真の他力に触れたとき人は自己と外界が一変に見えることに衝撃を受けることでしょう。全ては与えられている。信じて病気が治るわけではなく病気が無くなるわけでもない。信じてそれに支えられているかどうか、信頼しているかどうかが大切なのです。」
イエスは「私のパンを食べる者は決して飢えることがないばかりか、決して渇くことがない」と言われた。決して渇くことがないとは4:7サマリアの女への言葉。人目をはばかって昼頃水くみにきた女性にイエスが、井戸から水をくんで飲ませて下さいと頼んだことから始まる。イエスは4:14で「私が与える水を飲むものは決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」と約束。イエスのこの言葉を受け入れ信じて神の愛を知ったからと言って、この世の哀しみや苦しみが無くなるわけでもない。大切な人と別れなければならないのはまぎれもなく悲しいことであり、病気になれば苦しみを避けることはできない。しかし、表面は波立っていても、いつも湖の底が深い静けさを湛えているように、イエスの約束した歓びと平安と自由とはもっと次元の違った心の奥に広がっていくものだと思う。
私たちは大地のような大きな暖かな神の掌の中で生き育っているのだという安らぎ、勇気、希望それこそがイエスが死を賭けて伝えようとしたものである。決して正しい人間になるとか強い人間になるとかではなく、心の奥底には常に主にある平安がある。という幸いが大切である。
6:38~40において神の真相が語られる。“私が降って来たのは自分の意志を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである。その御心とは、私に与えて下さった人を一人も失わないで、終わりの日(審判の時:再臨の時)に復活させることである。私の父の御心は、子(イエス)を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることである”と説く。“イエスは既に来たり、しかし未だ終わりの日は来ていない”という考え方があり、終末について私たちは“既に”と“未だ”の中に存在し生きている。
信じる人を終わりの日に復活させるとは、人生を時間的視点から1回限りの旅として、神の永遠の生命に組み込まれることなのです。祈ります。